短刀選集

 

第17回 二代康継

 

 

 初代康継は姓は下坂市左衛門、近江国長田市下坂の生まれで、文禄期に肥後大掾を受領して初期は肥後大掾下坂と銘します。慶長5年に越前秀康の御抱え鍛冶となり四十石を得ています。慶長12年頃には秀康の推挙により家康、秀忠に召し出されて江戸にて鍛刀し家康より康の字を賜り康継と改銘し更に葵の御紋を切ることを許されます。
 
二代康継は初代の長男で名は下坂市之亟、晩年は入道して康悦とし父没後に二代目を継いで徳川幕府の御用鍛冶となり隔年ごとに出府していましたが、秀忠に気に入られのち江戸詰めとなります。
 
二代没後に家督相続問題が起こり二代康継の嫡子右馬助が江戸三代となり、二代康継の弟、四郎右衛門が越前にて作刀し三代を名乗り以降明治まで引き継がれています。下坂家は三代以降は江戸と越前に別れることになります。
二代康継が正保15年に没した事が知られており、三代はまだ若干17歳で刀匠としてもまだ確立されておらず、既に名が売れていた二代の弟の四郎右衛門との間に後継問題がおこったものと考えられています。
 
 
 
 
 
 

 

本作、二代康継の脇指について

 

本作は重ねが厚く幅広で寸が延びたやや反りのついた慶長期特有の姿の脇差で、湾れに互の目を交えた沈みごころの典型的な刃を見せる。彫は越前記内の手になるもので丸留めの樋の中に三日月の浮き彫、下方に二童子の高肉彫が施されています。
 
二童子とは不動の化身で上部の矜羯羅童子(こんがらどうじ)は合掌して従う童子で不動の持つ慈悲(じひ)を表し随順の精神を示していて、本作の樋中の月を見上げてる構図では月を不動明王と見立てているのかのようです。下部の制吒迦童子(せいたかどうじ)は杖を持つ童子で不動の持つ忿怒(ふんぬ)を表しているそうです。
また本作「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」の銘は初二代だけです。 日本刀の彫物所載品
 
 
 
 

 
  
 
 
 

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